小貝川の三日月湖周辺のツアー「川口公園から金村別雷神社」 つくば市役所・つくば市環境マスターの会がご案内 |
日程:2024年4月20日(土)
春の上郷ジオサイト体験!上郷の奇跡を体験しよう!
コース案内 つくば市役所8:30=(チャーターバス)⇒9:30川口公園→11:30金村別雷神社(昼食含む)→14:00川口公園=(チャーターバス)⇒15:00つくば市役所 歩行予定:7.8`、往路:4.6`、復路:3.2` 歩行数:1,8081歩 「つくば市環境マイスターの会」さんの協力で、時間通り無事に終わりました。 |
今日は「つくば市環境マイスターの会」ご案内で「つくば市環境政策課
推進係」の企画で開催される里山ウォーク「春の上郷ジオサイト探検!上郷の奇跡を体感しよう!」で小貝川の流れが作り出した地形やかつての川の跡、河川敷に建つ金村別雷神社など、小貝川と共に歴史を刻んだ場所を家族や友人と一緒に歩きませんか?高齢の私にとって難しい、7km程度歩くそうです。しかも天気予報は晴れで暑くなる予報!つくば市環境マイスターの会の方の案内があるので楽しみにして申し込む。
つくば市役所には、休日はつくバスは全路線来ないので、TX研究学園駅から歩くことになる。歩行時間は7分ほど(笑)。
8:30集合だが、8時前に着いてしまう、約20人と案内人を乗せ、時間通り市役所を出る、チャーターバスは9時頃に川口公園に到着。
左:川口公園に向かう 右:川口公園
県道133は入り、狭い三差路でバスから降り、立派な民家通り行くと鳥居、ここは裏口で、正面入り口に入る、トイレタイム(トイレは金村別雷神社まで無い)を取り、全員が集合し、ここで自己紹介と周辺の説明をお聞きし、準備運動(ラジオ体操)、全員気力充分で常日頃の健康管理に感銘する。里山ウォークには健康が一番ですね!
川口公園 撮影:202/10/1に一度ここに来ている
ここの後 吉野公園にも、釣り場で人気でした
<川口公園> 小貝川の恵まれた自然環境を生かした水辺公園です。5ヘクタールの園内には、大、中、小3つの池をはじめとして、噴水、壁泉、滝、アヤメ園、八ッ橋、太鼓橋など水辺に関連した施設がずらりと並んでいます。さらに、辺り一面の田園風景が眺望できる高台や、さわやかな風が心地よい芝生広場もあって、まさに自然とのふれあいを大切にした心安らぐ公園です。 茨城県つくば市上郷3190 小貝川は、以前は蛇行して流れていたので、たびたび水害を起こしきたのと同時に、氾濫のときに生じた大量の土砂は独特の地形ができ、川口公園は小貝川によってできた自然堤防の外側にあたる部分につくられていることが分かります。 この場所(蛇行河川の跡)は大きな湿地帯であり、大雨が降ったら余分な水がはけないことによる湛水(たんすい)被害を、一方で日照りが続いたら旱害による被害を被ってきたので、戦後に入って土地改良が行われた。しかし、その設備の老朽化と緯度の水位低下が問題となり、「県営土地改良総合整備事業川口地区」として再度の近代化が行われ、この施設は2001年に竣工したということです。 小貝川と切り離されていることから三日月状の湖となっています、だから水は自然に流れません。 ご説明の「つくば市環境マイスターの会」の先生も、笑いながら「昔は、水は高い所から低い所にしか流れないが、今はポンプで逆に流れる・・・」と! この湖の奥に見えている、緑色で囲った台地状の部分が、現在の小貝川の堤防で、三日月湖には川の流れている様子はなく、本流とは切り離されている。 川口公園は「指定緊急避難所=命を守るために緊急的に避難する場所」として指定されていますが、これは指定避難所とは異なり、災害の危険性がなくなるまで必要な期間滞在するというわけではありません。この地域の避難場所は、より高台にある上郷小学校が指定されています。 これから向かう、八坂公園も小貝川の浸食で台地(もともと高台だった)が削れた地形に作られた公園です。 |
川口公園にはここに戻るので帰りに寄るのかも知れない。立派な公園であり、三日月湖の生まれた様子が知れそうだ!
川口公園の奥にある八坂公園に向かう。小貝川の浸食で台地は消らできた地形を利用し作られた公園。ここが台地の頃は美味しい沸き水が多く、酒屋(住之江)さんがあって酒作りをしていたそうですが、浸食が原因で釀造酒を続ける旨い水が得られなくなり止めたそうです。
この八坂公園奥には八坂神社がありバスを降りた道の先に入口があります。
川口公園を左に見て、公園の台地から低くなった水田の中央で「これから進むコースや三日月湖のできる様子」をお聞きしました。昔が小貝川は蛇行してこの辺を流れていたが、蛇行せず真直ぐに流れ、残った部分が残り、三日月湖になったそうです。
この辺りが後背湿地で自然堤防と呼ばれる所だそうです、目の前の大きな上郷フォームの牛舎(ブランド牛)の裏に大きな旧堤防、ここは右に旧堤防に登る階段があるが、案内人はここは直進。
左:川口用排水機場 石碑 右:水田と反対側が三日月湖である
直進する訳は川口用排水機場と旧河道である、三日月湖の用排水機場で、ここで見える水田に水を流すとのだそうです。
横に大きな石碑があり「禾黍油油」(かしょゆうゆう)「稲や作物などが、つやつやと勢いよく成長するさま」とあり、「禾」は稲や麦などの意味している。
<つくし湖> ここの水田は、小貝川のすぐそばなのに水田を維持するための水不足もあったとか、霞ヶ浦から筑波山の下を通過し、桜川市のつくし湖へ、そして農業用水・工業用水道用水。上水道用水などに利用されている。ここ上郷にも流混んでいる。 つくし湖は筑波山のふもとに位置し、風の穏やかな日は湖面に「逆さ筑波」が映る。桜の名所としても知られる。筑波山の登山口で公衆トイレ・駐車場のあり、私も何度も利用している。 全国津々浦々水田は健在と思っていたのですが、水がどこから来たのかはそれぞれの水田のそれぞれの歴史があるので注目したいものです。 |
ここでは三日月湖はまだまだ目に触れない、案内人らがいきなり逆に進み、見過ごした旧堤防に登る階段を登りだす、川口用排水機場と反対の三日月湖側の施設に建つ、そして初めて私達は三日月湖を眺めることになる。
<北海道美唄市・樺戸郡浦臼町(5万分の1地形図「砂川」)> 三日月湖 この地形図にある石狩川は、総延長262kmの大きな川です。明治以降、洪水調節と農地造成のために河川改修が積極的に行われました。その結果、河川延長は約58kmも短縮され、下流部の水位は3.5mも低下し、農地が急激に増加したといいます。地形図に見える三日月湖は、その名残です。 現在は、渡り鳥の飛来地などの残された自然として、あるいは市民の憩いの場として整備されています。当時の原始河川の流路を想像しながら、地形図上の三日月湖と本流の上をたどってみると、文字どおり「蛇行」が見えます。 |
左:三日月湖 右:小貝川の堤防に登る
旧堤防から三日月湖を眺める、流れない小貝川です。想像以上の小湖で美しいとは言えないが、自然を台地の人々の生活に大きく影響。上空から眺めると三日月に見えるが、ここからだと広い沼湖と行った風景です。
次は旧堤防側から小貝川の新堤防に登る、草道で特に用意された階段は無い、この新堤防は「金村別雷神社へは人手を入れた堤防」と「あかぼっけ」の台地を通って進むようです。
左:左に三日月湖が続き 筑波山が見えます 右:豊里排水樋間
まもなく、豊里排水樋間です、小貝川と三日月湖が繋がっているつなぎ口です。
水門・樋門(ひもん)・樋間(ひかん)はこのように小貝川と三日月湖を繋ぐ施設で、ここでは豊里排水樋間と呼ばれているようです。三日月湖側は水田で、今から多くの水を使ってゆく時期ですね!水田では「しろかき作業」が見えていますが、ここの水田も休耕が多くなっているようで、草が生え放題の水田が目に付きます。
小貝川・CCTVも途中に有りました。小貝川を超え豊田城天守閣が望め、北方向に筑波山。説明の方が大きな重い袋を持っている、三日月湖も見えず、小貝川も見えず、モクモクと歩く、風も無く暑い・・・だから「重いですね・・・」の声も出せないでいると!
そんなツライ時に「この写真は何処から・・・・」「筑波山って3個の峰・・・3個の峰の名は・・・」また「女体山・男体山」「男体山・女体山」の見え方を変え撮影場所を聞く。茎崎からは「男体山・女体山」に並んで見え、坊主山ははっきり見えない。この往路・復路をお弁当・水・大きな袋をもっている彼女!・・・これでは金村別雷神社まで「疲れたと・・・」とは言えない私です。
あかぼっけ・水道施設
往路は三日月湖も小貝川も見えない「あかぼっけ」に入る、淡々と歩くのみ、遠く左に大きな工場が見えるだけ。右にただ広い畑が、広がっている、奇麗に耕され植える物は決まっているようです。
こんな時、水道施設が左の高台にある、先導する人の足が止まり、説明が始まる。説明を聞く=休める時間、この場が往路・復路の別れ道のようです。
左:豊田城天守閣 写真の中央に! 右:金村別雷神社の森が見えて来る
あけぼっちから小貝川の見え、豊田城天守閣が見えるようになる、約4.6`の復路も終盤、最初の入口の三差路は金村別雷神社の裏なので近くても、ここはパス。
県道133(金村)から堤防を超えてくる道と福雷橋方向が出会う、ここを右折し金村別雷神社入口を通過。
左:福雷橋(ふくらいばし) 11:26 右:豊田城天守閣
ここで、福雷橋、下流に圏央道(常総 国道294号)と新福雷橋(県道123)・吉野公園。上流には豊田城天守閣(常総市地域交流センター)が見える。
今日の良い天気ですが、福二町の方に入っても筑波山が確認できませんでした!
<福雷橋> 福雷橋は旧小貝橋です。この橋はかつて多くの参拝者が参拝の際に渡ったものであり、人界から雷神の社のある地へと昇っていくような感覚を味わえたのではないでしょうか。現在は境内から少し離れた場所に橋が架けられており、かつてのような感覚を味わうことは難しいかもしれませんが、橋の中央に立つと神社や小貝川、筑波山を含めた景観を見渡すことができ、常総平野の広大さを感じることができます。 1928(昭和3)年に架けられたコンクリートの橋。福雷橋は常総市副二町と金村別雷神社を結ぶからで特に考えたものではないようです。東日本大震災で2011年から3年間は通行止め、狭い枠内を通れる車に限定。1964(昭和39)年に河川法が改正になる前は、神社前には飲食店など多く、河川敷内に住んでおり、小貝川を利用した水運がさかんだったようです。1964年は東京オリンピック、王貞治・野村克也・大鵬など。日本の経済成長を象徴していたころです。 |
以下、金村別雷神社のお話です:
長い参道が続きます 一の鳥居
境内に入ります 二の鳥居
金村別雷神社拝殿
金村別雷神社(かなむらわけいかづちじんじゃ)は、つくば市西部、つくば市上郷の小貝川畔の堤外地に鎮座する。
水戸市の別雷皇太神、群馬県板倉町の雷電神社とともに関東3雷神とされる。地元では「雷神さま」として親しまれている。
拝殿内部へ
境内、拝殿の左の参集殿に入り、回廊を登り渡り拝殿に入り、拝殿の椅子に座り、講義をお聞きする。
各天井の絵画は紀元2600年記念事業として、画伯としても活躍した先々代宮司氏が心魂を傾けて揮毫(きごう)したもので、百穀を描き分け、1942(昭和17)年に完成した。宮司自身による天井画は全国的にも大変珍しく当社の重宝となっている。
この立派な拝殿内部に入らせて頂き、重宝を拝見でき、感無量!
雲竜図@、A
陽明門の二面の天井絵《雲竜図》 陽明門の中央の間(通路)の天井の2面に昇り竜と降り龍の《雲竜図》が飾られている、昇り龍は八方睨みの竜、降り龍は四方睨みの竜と言われる。現在は、門の外側(南側)にあるのが降り竜、門の内側(北側)にあるのが昇り竜。 見に出かけたいものです。 |
雲竜図B、➃
左:身近な天井画 右:裏庭
宮可自身の天井画には、タケノコやスイカなど身近な物が描かれ・・・・筑波山を背景に馬の天井画も絵がかれている。ガイドブックには葱・鶏が掲載。天井画が一冊の本になったら素晴らしい!
今12時、40分の昼食タイム、裏庭に回るよ、高台に本殿が祭られ、その奥に陽が射し込み乾いた石垣でおにぎりを頂く。ここで働く人にお聞きすると、フクロウの写真を求め連日朝から座り込んで、現れるかと待っている人の話をお聞きする。5月頃ヒナがかえり、今がチャンスだという。彼らに聞くと、今日は(も)まだ影すら見ていないという、フクロウはつくば市の鳥に指定、中央公園や市役所に像が置いてあります(アテナの聖鳥)。
<金村別雷神社> 明治時代の景観図、戦後まで山道の両脇には旅館・料理屋等が30軒ほどで、鳥居前町(とりいまえまち)の門前町が栄えて、お祭りに関わり無く参拝者であふれていたそうです。関東大震災までは遥か東京都内から神奈川方面から参拝があったようです。春・秋の例大祭には、参拝者の行列が延々と続いていたといいます。 戦後、堤防がかさ上げされ、また河川法により建設省(国土交通省)の指導の下、人家を優先に堤防外に移動を余儀なくされました。当神社も移転の話があったそうですが、莫大な経費と宮司宅も移転がきまっていたこともあり、人の住まない神社は先延ばしになったようです。 それ故、現在の景観は、社務所・神楽殿等を含む境内ごと河川敷に鎮座する全国でも珍しいものになっています。 大雨が降ると境内は高いため平気ですが堤防からの道路が冠水して孤立状態になってしまいます。しかし、度重なる小貝川の氾濫でも御社殿が被害を被ったことは有りません。唯一、1986(昭和61)年の小貝川決壊の時には境内まで水が乗りましたが、その時でも御社殿が水に浸かることはありませんでした。 日本を代表する熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)は元々熊野川の中州に御社殿が鎮座していたが、明治の大洪水で流されてしまい現在の高台に移っている。この金村別雷神社は小貝川の中州にあるが、たびたびの増水で境内が孤立するも社殿は高い位置(標高17b)に鎮座しているため被害に遭ったことがない! この小貝川決壊(1986(昭和61)年)の時私は39歳、瀬古選手はロンドン・マラソンで初優勝。落合博満(ロッテ)は三冠王の時代です。 <アテナの聖鳥> フクロウは、「英知」「知恵」「伝言役」と言われ、フクロウは、「アテナの聖鳥」です。 そして、フクロウは、アテナの象徴とされる鳥、アテナは戰の知恵の部分や技術を司り、英雄の手助けをしています。そのアテナが鳥に変身し、鳥の姿からフクロウが聖鳥になったと考えられています。 つくば市の選定理由: 農村・人里環境を代表する鳥で森の哲学者ともいわれています。知恵と技術の象徴であり、学園都市を擁するつくば市にふさわしい鳥です。 *擁する(ようする) |
お昼休み後の集合場所 手水舎
参加者全員集合、拝殿の裏にむかう。
左:本殿 右:境内社(けいだいしゃ)
本殿は柵に囲まれているが、茨城県の指定文化財。境内に奥に境内社の長い建物がたっている。
鳥居が建ち、前回2020/10に訪れた時はカラカラですたが、今日は水が溜まって深く見えましたが、極浅い沼で「神池」です。この左に戻る近道が有るが、続けて境内を一周し、表にでる、竹垣代菅徳政之碑が置かれ、その碑の前で担当者が午後の部を元気に再開してくれた!
<竹垣代菅 徳政之碑> 竹垣代官 徳政之碑は、1793(寛政5)年から、この地にあった代官所に赴任した竹垣三右衛門直温(なおあつ)の徳政に感謝するため建立されたもの。
「竹垣代菅 徳政之碑」と刻まれている。 当時、天明の飢饉により荒廃していたこの地方を立て直すため、農業振興を図るための勧農政策を進めた。
まず、働き手となる人口を増やすため、間引きを禁止し、出産すると養育料を与え、成人すると鍬や万能を支給した。 1814(文化11年11月8日、77歳で亡くなると、竹垣代官の厚恩を後世に残そうと、翌1815(文化12)年3月、この碑が建立された。
また、子供の健全な育成に努めたことから、近年の信仰ではあるが、徳政碑の前には、「子宝・子育て石」があり、 この碑をなでると子宝に恵まれるという。私は今77歳、無職です! 今回は若い男女が参加しており、産児奨励金制度に感動して欲しいものです。 |
二本の大きな木
このまま二・一の鳥居に向かうと思ったが、一人の植物担当者が、草むらに突進して行く不思議です。二・一の鳥居の間の参道は桜並木となっているが一の鳥居近くに大ケヤキ、大エノキがある。
また、二の鳥居近くには灯篭、狛犬がそれぞれ一対ある、不思議な彼女です!
ところが!境内を案内する担当者は大股で貴重な線を踏む、金村別雷神社は、境内を東経140度線が通るパワースポットでもある。「一の鳥居東側の雑木林から神楽殿の東側付近に抜けている」との事です。
東経140度線は、本初子午線面(グリニッジ子午線)から東へ140度の角度を成す経線である。北極点から北極海、アジア、太平洋、オーストラレーシア、インド洋、南極海、南極大陸を通過して南極点までを結ぶ。東経140度線は西経40度線と共に大円を形成する。不思議な魅力にあふれる場所でした。 |
東経140度線?(中学生の時学ぶ)と思いつつ・・・草むらに突進して行く彼女を追う、大エノキの前に立ち、オオムラサキの説明。大エノキは雄・雌の花が異なり、雌花が可愛い実(緑色)です、ここにオオムラサキがやってくるそうです。
オオムラサキ 小貝川は、鬼怒川が山地からの流れなのに対して、水田の水の集まりです。したがって、小貝川の河川敷には豊かな土壌が堆積し、生育する植物層は鬼怒川の砂礫河原に比べてずっと豊富です。小貝川の特徴的な樹木群としてカラコギカエデの群落、国蝶オオムラサキの食草となるクヌギやエノキの群落、それに混じってゴマキが点在しています。草本類では、ノウルシやヒメアマナ、ヒノキカサ、希少種に指定されているフジバカマ、そして平成13年に初めて確認されたキタミソウの大群落が見られます。全国的には激減しつつある植物が生育している貴重な空間となっています。 魚類は、福岡堰、岡堰、豊田堰の3大堰をはじめ大小多数の取水堰が設けられ、耕作期から収穫期まで(3月終わりから9月末まで)水がせき止められ、全川を通じて流れが穏やかなことから、フナ、コイ、オイカワなどが多く生息します。 河川敷内の樹木群は、鬼怒川同様に「チュウサギ」等の格好の営巣地となっています。真岡市を流れる小貝川では、数が減ってきた「ホオアカ」の繁殖が確認されています。 河畔林はオオタカのえさ場となるとともにサシバ等の小型の猛禽類が営巣しています。また、アユ、サケが遡上する河川として有名です。今日も上空を猛禽類が夫婦で飛んでいましたね! 小貝川ふれあい公園:オオムラサキの森があるが。小貝川の河川敷を利用した公園」で5月はポピー、10月中旬にはコスモスが咲き誇る公園です。 茨城県下妻市のマスコットキャラクター「シモンちゃん」は本種を萌え擬人化したデザインとなっている。なお、女の子のように見えるが、羽の模様はオスのものである。 |
オオムラサキの姿は筑波山や茎崎でも以前は良く目にしたけれど、今はなかなかお目にかかれません。
私達は参道に戻らず、来た道に出て、帰路に進みます。
左:水道施設が見えて来る 右:復路の三日月湖
水道施設が見え、左に大きく筑波山「男体山、女体山」の並び、坊主山も確認できます。
この水道施設の手前が往路・復路の分岐です、右に下ると水田地帯で休耕田が目に付きます、多くの原因があり大変ですが、米の価格・人材不足・・・。
広い田畑、あかぼっけ遺跡です、「上郷の奇蹟(遺跡)、見つけよう」と言われても・・・・奇蹟は金村別雷神社でみつけたようです!
上郷の台地一帯は遺跡が沢山分布、縄文人が小さな集落を作って暮らしていたそうです。「神社周辺の田んぼや水田から縄文・弥生時代の土器が埋まっており、簡単に取り出されたそうです(神社の宮司さんのお話)」。説明員が「ほら、ほら・・・」と土器の欠片を指しますが、腰をおり拾う余裕は有りません(笑)。なんでも遺跡調査は行われていない所の様です・・ここ来てこっそり掘るか!・・。
今度は左に三日月湖が見えてきます。筑波山は進む角度で見える位置が左右に変わる!
左:水神碑 右:馬頭観音碑
三日月湖の堤防に上がり説明を受ける、かつては養蚕業で栄えた時代もあり、歴史・文化の蓄積があったようです。栄えた養蚕を細かく説明されたのでビックリ(事前調査が大変でした!)、上越は豊かな蓄積があったようです。高校生まで実家では養蚕をしており、養蚕で生き延びて来たので良く解ります。
三日月湖から水田を横切って消毒作業の脇を通過し、馬頭観音碑を見る、奥秩父の山道に同じ様な馬頭観音碑が多いが、ここの台地でも馬の力は運送に大きく役立ったことが解ります。
左:碑は広場 右:裏には年月日が記録
大正十年二月建?と年月日が刻んでありました。
馬頭観音碑の裏の広場には、黄色のクサノオウ、うす紫のハナダイコン(ショカッサイ)が密集。植物観察会になって、得意の人が多い様ですね!
この後は、植物観察を続けながら、竹藪なども見ながら、水田の右側を通過し、川口公園に入らず、右に公園を見て、再び水田を横切って、川口用排水機場の駐車場のチャーターバスに乗りこみ、つくば市役所へ。
<川口公園> 川口公園には、トイレに立ち寄る人のみで横を通過、せめて、休憩時間をとり、公園内を通過したかった、残念。つくば市の公園で4番目の広さだって! |
<吉野公園>
吉野公園 撮影:2020/10/2 吉野公園も小貝川の三日月湖で、釣り人で賑わう、南下し平和橋を過ぎると小貝川スポーツ公園が広がっている、更に南下を続けると福岡堰さくら公園です。つくば市役所からここも近いので、つくば市役所・つくば市環境マスターの会でツアーを企画されるでしょう! 小貝川スポーツ公園 住所:茨城県つくば市高良田455-1 アクセス:つくばエクスプレス線「万博記念公園駅」から車で約9分 電話番号:029-847-6757 駐車場:あり 76台 休館日:テニスコート、野球場ともに12月28日から1月4日まで |